仮面について
お能の見方 白洲正子・吉越立雄 新潮社
マクベス シェイクスピア 新潮社
幸福な王子 オスカー・ワイルド 新潮社
夜にふと思ったことです。
陰影の濃淡が見せる様々な表情。悲哀、憤怒、歓喜、すべての感情を写しながら、その姿はひとつという潔さ。
私は能面が好きです。
といっても能を実践しているわけでもなく、萎縮してしまいますが‥。
生きてさえいれば、「本当の自分とは何か?」なんて疑問を一度は持つと思います。
必ずしも解く必要のない問題。人はどう消化していくのか、少し興味が湧きます。
そこで、ちょっと哲学的な本などに食指が動くわけですが(理解できないとしても)読書には、自分が生きることのなかった人生の一場面を体験できるという側面もありますね。
「人の生涯は動きまわる影に過ぎぬ」とは『マクベス』の有名な台詞ですし、哀しくも美しい童話『幸福な王子』を書いたオスカー・ワイルドは「仮面を与えよ。その人は真実を語るであろう」という言葉を残しています。このワイルドの言葉は、今書いているブログにも当てはまることですね。痛いところを刺す鋭い皮肉は、綺麗な言葉で装飾された嘘よりも好ましいです。
でも、御大にどう皮肉を言われようと、傍から見れば馬鹿馬鹿しい事であろうと、人が泥もつけずに人と交わり生きていけるものでしょうか。笑っている人が、本当に笑っているとは限らない。本当は悲しんでいるのかもしれないし、実はものすごい殺意を隠しているのかもしれない。薄皮一枚に隔てられているだけでこうも相手の本心が分からないのですから、時には思いやりさえ、自分の想像の産物に過ぎないのかもしれません。しかしそれでも失敗や恥を重ねながら、なんとかかんとか自己や他者の存在の在処を汲み取ろうとして想像力を駆使するところに人たる所以があるようで、そうやってつくられた顔、つまり仮面を、剥がしてもそこには何も無いような気がします。
何にも無い…は、とても怖いことのように思います。だから私は、古来よりせっせとお面が作られていることに安堵を覚えるのかもしれません。
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